伊豆製氷冷蔵株式会社
「伊豆製氷冷蔵株式會社」
(郡制廃止記念賀茂郡有志肖像録)
大正12年頃。現在、旧南豆製氷所。
伊豆製氷冷蔵株式會社は、大正12年4月設立。
平成19年7月、国の登録有形文化財として登録されたが、平成26年4月に取り壊された。
保存運動については、こちらへ。※外部リンク

「氷は、明治中期まで、贅沢品の部類だった。天城の天然氷を切り出し、下田公園上り口、左の方に石造倉庫があり、これに貯蔵して売っていた。須崎町の今成氏(稲梓小学校校長の今成勝司氏の祖父)が一手に扱った。魚荷に使うようになったのは、明治末期になってからのようである。稲取のサンマ漁が早かったと聞いている。下田でも、それにつれて使い始め、漁船機械化の頃から、盛んに使った。始めは、東京湾汽船が、今の下田波止場にゆく途中の、相模屋タンクのある所に、貯炭所と氷の貯蔵庫を設けて供給した。暫くして、原町河岸、今のフタバ電気の辺に倉庫を変えた。その頃は日本製氷の製品を、需要期外れには、殆ど原価で仕入れることが出来た。これを貯蔵して置き、随時供給したのだ。明治四十五年四月に、資本金五万円で、下田製氷会社が弁天に設立された。その頃は、一般でも氷を使うようになったが、魚荷用は東京湾汽船の供給の方が多かったようだ。そのうち、大正十二年三月、資本金二十五万円で伊豆製氷が、須崎町稲荷河岸に設立された。東京湾汽船、日本製氷、田子製氷、下田有志が四分の一ずつ出資した。下田製氷が稲生沢銀行系に対して、これは下田銀行系であった。始めは、業績は好調で、やがて、下田製氷、次いで稲取製氷を合併した。ところが、昭和五、六年頃、原町河岸に、今の下田製氷が設立された。これと前後して、浚渫や、河岸護岸の整備等が次第に進むと下田製氷は工場から船へ直送することが出来るようになった。伊豆製氷は地の利に於いて、不利になったのみでなく、冷凍船の発達、価格競争等で次第に業績低下した。その結果、下田の有志は持株を手放すにいたった。それで、昭和十三年十月、田子製氷の森和平氏が一時、社長に就任したりしたが、やがて小川基氏が、一旦横浜方面へ流れた株式を引受けて社長に就任した。南豆製氷となって、今日にいたっている。」
(澤村久衛門氏に聞く下田港をめぐる南伊豆産業経済の変遷)

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